座談会 「匠の原点」(前編)
出席者
木下英俊氏、相原才一郎氏、山本秀二氏、宮崎博氏
「匠の原点」 ―― 職人の道具箱 ――
 「匠の原点」シリーズは回を重ねて5回目になる。木下英俊氏、相原才一郎氏、山本秀二氏、宮崎博氏と続き、さてこの次は誰かとなって困ってしまった。編集委員会の席で、それじゃと前々から懸案になっていた座談会の話を出したら即決で決まってしまった。そんな経緯があり3月10日夕刻、札幌のとある静かな居酒屋に木下さん、宮崎さん、山本さんに集まっていただいた。当日は中田編集委員長も多忙な中、旭川から駆けつけた。
 それでは、座談会の模様を前編、後編(12月号予定)に分けて紹介します。
名雪: 今日はお忙しい中お集まりいただきありがとうございます。今回の試みは木下会長さんと前々から一度やりたいものだと話していたこともあり、ついに実現しました。今宵はゆっくりご馳走でも食べながら昔の鋳物職人について語ってください。その前に中田委員長から一言ご挨拶いただきたいと思います。
中田: 中田です。本日はご多忙の中、また山本さんには体調が悪い中お集まりいただきありがとうございます。私、平成8年から名雪さんの後を受け支部会報の編集委員長を仰せつかっておりまして、今回は鋳物の大先輩から昔の鋳物師の技術、心の原点の話を伺えるということで非常に楽しみにしております。よろしくお願いします。
名雪: それじゃみなさん、時間もたっぷりあることですし、山本さんには悪いけど飲みながらやりましょう。山本さんはドクターストップかかって今晩はウーロン茶なんで話が弾みませんよね。
山本: いいよ。いいよ。気にしないで。そのうちに元気になってからこの分も取り戻すから (笑)
戦争への暗雲と年季奉公
木下: 昔の鋳物師ということでは宮崎さんが一番古いんじゃないですかね。
宮崎: うーん、でも私は“年季”が明けてすぐ戦地に行っているから。そして5年間外地でしょ。鋳物師の期間はずっと短い。
山本: わしらの時代には“年季”というのはなかったからね。今60歳前半の人ではほとんど経験ないんじゃないかな。
宮崎: 確か、昭和12年頃に軍事訓練が本格的になってからは年季奉公はなくなったね。私らが年季奉公の最後かもしれない。
木下: そうかもしれないですね。私はうちから通ったけど、徒弟制度というのは親方のところに住みこみ、雑用しながら少しずつ技術を覚えるという制度ですからね。
宮崎: 私らの時代は親方の所に寝泊りして仕事をした。そのあと寮かなんかできたからね。そこから通ったもんです。
名雪: 親方の家は大きかったのですか。
木下: 年季のアンチャンのほかにいろいろな人たちが一緒に住んでいたからね、それなりに大きかったんじゃないですか。当時の年季奉公というのは、尋常小学校を出てから兵隊検査まで親方のところに寝泊りして、また兵隊から帰って来てからは半年か1年くらい“お礼奉公”をしたものです。
宮崎: 私なんか年季がやっと明けて「さあ、これから鋳物職人だ!」って意気込んでいると昭和15年の春ですか、徴兵検査で甲種合格し、入隊までのその年の暮れまでほかの工場に見習いにやらされたでしょ。だから働き盛りの鋳物職人としての記憶というか経験がぜんぜん無いんです。
宮崎: 私の初任給は日給2円30銭でした。早出して3円くらいでしたか。休みなんかほとんどないから月に90円は稼ぐんです。当時の小学校の校長先生がそのくらいでしたからけっこう働いたもんです。
当時はどんな鋳物がありました?
中田: 当時はどんな鋳物を造っていたんですか。
宮崎: 私んとこは砲金工場でしたから、炭鉱や鉱山の機械部品が多かったですね。
木下: 私んとこはヅク専門で、やはり炭鉱機械が多かった。チルド鋳物の車輪で、鉄を5、6%入れて溶かし鋳物にしてから、ピットの中で焼鈍するんですね。市のマンホールなんかもやっていた。それとストーブなんかは当時どこでもやっていたですね。
山本: 炭鉱のトロッコの車輪ね。チルドのタイヤは大変だった。熱いしね。
木下: 戦時中でしたか、旋盤のハシリって言うんですかベッドをやりました。セミスチールとは言えませんが。あの頃は溶解の温度も上がらなくて。でもコシキ炉で1,400℃くらいは上がった。送風機は今と違ってルーツ型と言って、音は喧しいけど大したいい風が出たんですよ。
名雪: どこかの工場でルーツ型送風機の残骸を見たことがありますよ。瓢箪型の断面をしたアルミニウムでできた回転翼で、長さは確か1メートルくらいのものだった。あんなものが高速で回転するとなると物凄い音がしたんでしょうね。
木下: でも大した性能だった。
中田: 旋盤のベッドとなると、けっこうな重量になるんじゃないですか。
木下: 六尺旋盤でやはり400から500キロの重量はあったんじゃないですか。
名雪: 前に山本さんに見せてもらった写真でも楢崎造船時代でしたか、3、4トンの鋳物をやっているんですよね。
鋳型の乾燥炉が物珍しくて…
宮崎: 昭和13年頃だったと思うけど、私たちの先輩だった金子さんが六尺旋盤の鋳型を乾燥したいと言ってレンガを積んで大きな乾燥炉を作った。そして「天井走行のチェンブロックを貰い下げたから、それで鋳望を乾燥炉に入れるからぜひ見に来い」って言われて物珍しさも手伝ってみんなで見こ行ったものです。
中田: その頃は乾燥型でやったんですか?
木下: 工作機械は生型ではダメで、乾燥しないと鋳型がもたなかったですね。狂いが出るんですね。そこで逆反りを付けたり、砂の中に弾力性をもたせるためコークスを入れたり、いろいろ工夫したけど1回では出来なかったですね。
宮崎: そして鋳物が出来たら外にしばらく置いて雨風に晒しておいたね。
名雪: 歪を取るための“枯らし”でしょ。今の時代なら簡単に熱処理するんでしょうが。
鋳型じゃなく鋳物を造るのが本命だ
木下: 当時の親方とか兄弟子はほんとに凄い腕を持っていましたね。いくら頑張っても追いつけなかったです。その頃、我々はただ型をこしらえるのが本命と思っていたが、親方や兄弟子から「鋳物屋は鋳物を造るのが本命だ。鋳型の表面だけをいくらテカテカに撫ぜてもダメだ」とよく言われました。
名雪: 物づくりの本質というか、理屈を覚えろ、ということなんですかね。
木下: そうなんです。ストーブの灰出し口で普通に込めると狂ってダメなんです。肌砂はきちっと固く込めるけど、裏砂はほわっと軟く込めないとダメなんです。いろいろとやってみるんですが出来なかったですね。理屈がわかればそれなりにやるんでしょうが親方や兄弟子たちはその理屈をなかなか教えてくれないんですよ (笑)
名雪: “見て覚えろ!”ですか (笑)
木下: 鋳物砂も当時は山砂でしょ、通気度もかなり悪かったし、それなりの込め方が必要だった。
鋳物職人の道具箱の中身は…
名雪: 今の鋳物工場では鋳物べらなんか使わないですよね。若い人に鋳物べらの話をしてもわからない。
山本: 持っているけどほとんど使わなくなったな。
名雪: いろんな名前の鋳物べらがありますね。‘天神’とか‘ころし’とか名前だけ聞くと何に使うのかピンとこないですよね (笑)
山本: そうそう。みんな砲金で作ったもんだよ。戦前のものは材質が良かったけど、終戦後のものは悪くてね。滑りが悪いのさ、それで‘お玉’とか‘なめくじ’とか (笑)、砲金で造ったもんだ。いろんな名前があったけど忘れたな。
名雪: なめくじ!? (笑)
木下: 形がナメクジに似ているからそんな名前になったんでしょうね。それぞれ特号から10号くらいまであって、だから道具箱にはけっこう鋳物べらが入っていた。
宮崎: 道具の名前を覚えるだけでも大変だった (笑)
名雪: 先日ある人から、“昔の鋳物職人の道具箱にはどんなものが入っていたんですか?”と聞かれ「それは鋳物べらやら七つ道具など入っていたんでしょうね」と答えたら、“七つ道具ってどんなものですか?”と突っ込まれた。それで壊中電燈とか欠けた鏡とか目吹きとか折尺とか、パス、分度器や定規など。とにかくいろんな物がゴチャゴチャと入っていたみたいだよと答えたんだけど。ところで宮崎さんの道具箱には当時どんなものが入っていました?もう忘れましたか?
宮崎: うーん、鋳物べら以外にね。何が入っていたかな (笑)
名雪: 欠けた鏡なんかありませんでした? 私なんか最初見たとき何に使うのかな、なぜ半分割れたような鏡が必要なのかと思いましたよ。
宮崎: あれは鋳型の深い底を照らして見るのに重宝したんですよ。カガミはみんな持っていたな。それにコンパスはあったな。
木下: 内パス、外パス、目吹き、スコヤ、水準器、小刀など仕事の内容によっていろんな道具が必要だった。目吹きなんかいろんな長さのものが数本入っていた。
名雪: 麻糸、針金、それにペンチにヤットコはどうでした?
宮崎: 麻糸は持っていたな。それに芯金を組むのに細い針金も持っていた。
名雪: 針金で縛って‘釘抜き’って言うんですか先の丸くなったヤットコを使ってクルクル締める。閻魔様の舌抜きじゃないけどよく締まるみたいで感心して見ていたことがあります。
木下: 紙をきるのにマキリみたいな刃物も持っていた。
山本: 昔の職人さんはそんな道具をちゃんと持ち歩いていたんだ。今の時代はそんなことは無いけどさ。
他人に見せたくない秘密兵器
木下: それと‘冷し金’を何種類も持っているんですよ。それはあまり他人には見せないですけど。
名雪: いろんなサイズのものを用意しているんですか。ふーん。内緒でね。
木下: それにあの頃の職人はみんな炭粉も持っていた。石炭粉ですよ。それを肌砂に混ぜるんですよ。そうすると‘きらって’鋳肌がきれいになった。最初の頃、端で見ていてそれが何だろうって思ったけどすぐ石炭粉ってわかりましたね。
名雪: ふーん。理屈だ (笑)
木下: やはりひとつの秘密兵器なんでしょうか。我々が見るとすぐわかりますけど、まぁ、他の職人に見せたくないというのは自分が持っている技術が盗まれたら困るということだったと思うんです。
名雪: なるほどね。気持ちはわかりますね。ほかにケレンなんかは入っていました?
木下: 何種類か入っていた。トンボケレンとかね。でもそのうちにケレンなんかは鋳材屋さんが扱うようになったから個々には持たなくなった。
山本: そうだね。昔は鉄板をハサミで切ったり、コの字に曲げたりしてこしらえたもんだけど、だんだん鋳材屋さんのもので間に合うようになった。今は何でもあるものね。
名雪: 道具箱の中身はそんなとこですか。
木下: うーん、そうですね。それと道具箱は持ち歩かないで、だいたい現場に置きっぱなしでした。ただ鍵はきちっと掛けていましたけど (笑)
山本: 終戦後の話だけど、私なんか砲金で造ったお玉など盗まれたことがあるよ。
宮崎: 下が‘引き出し’で上が‘引っ掛け蓋’の道具箱でね、下の引き出しには鍵を掛けて大事な秘密兵器 (笑) をしまったもんです。
名雪: 工業試験場にいた上館さんが持っていた。上がパタンパタンの蓋で、下にいくつか引き出しが付いている‘からくり箱’ですよね。上館さんが退職のとき置いていったからこれはまだあるはずです。
宮崎: 昔は年季が明けると、道具箱は親方が一通り新しいのを買ってくれたもんです。でも市販品には無いものも多く、半分以上は自分の仕事に合わせて道具を造った。市販のものはそのまま使ったけど、特殊なもの、リスワとかナメクジとか鉄で造ると錆びるから砲金で造ったもんです。
山本: スプリングとかレール、ヤスリを加工して造った。良い物が出来たよ。
名雪: それから、今の若い人はハジロとかキラ粉を知らないみたいですね。もっとも今そんな物は使わないから当たり前ですけどね。
木下: キラを振った鋳物の肌は良いですね。黒鉛も良いけどキラを振った鋳物は錆びないですから。
中田: キラは今現揚で使わないですか?
名雪: 無いのじゃないですか。塗型は別として、今は鋳型に黒鉛粉やキラ粉を振るというようなことは見なくなりましたね。肌を改良するのなら最初から鋳型砂をそのように処理しますから。要するに複雑なことはしなくなりましたね。
宮崎: 当時は豊平川の砂だから (笑)、耐火度も低くてね。野幌砂が使われるまではうちの裏の豊平川の河原からずいぶん砂を運んだもんです。
木下: 札幌には良い粘土は出なかったですが、小樽は出たんですよ。昔から焼き物に使われていたようです。
どこにもいた現場の神様さま
名雪: 中田さん、中田さんが日鋼に入られたのはいつですか。
中田: 私は昭和39年です。所長が鍵和田さんだったと思う。私の入った頃には鋳造工場や製鋼工場、また関連工場の現場にはまだ周りから神様と言われるような人がずいぶんいましたね。ただその頃すでに始まっていたんでしょうが、室蘭が大型品を指向していましたから従来やっていたような技術では対応出来ないということで現場の神様の最後の時代だったんでしょう。
木下: 当時はこの職人がいなければこの仕事は出来ない、というようなことがありましたね。それがだんだん世の中が変わってあの職人がいなくても出来るシステムが出来てきた。昭和15、6年頃からみて鋳物の生産量はずいぶん増えているんでしょうね。
名雪: 戦前の生産量については定かではないですが、昭和37年頃と今と比較するとそれほど生産量は増えていないんですね。当時、道内の鋳物工場は専業、兼業合わせて120工揚あって、生産量は3万トンから3.5万トンくらいですか、それが今は鋳物企業が30社前後になって生産量についてはやはりそのくらいですか、ですから1社当たりの生産量はかなり増えていますが、全体量は変わっていないんですよ。
山本: 当時からみると今はかなり機械化されているからね。それにしても120工場が今は30社かい。ふーん。
宮崎: 戦前に札幌には15、6社あったが終戦後鋳物工場は増えて、札幌だけでも30工場くらいあった。
山本: 構造改善の前は確かそのくらいあったね。
木下: それと鋳物であれば何でも売れた時代だったですね。砂とコークスがあれば鋳物はできた。
中田: また戦後は炭鉱の仕事がずいぶんあったのでしょうね。
山本: そうそう、私らの最初の仕事は炭鉱の鋳物だった。夕張製作所という会社で炭鉱機械の専門工場だった。ここに親戚の人がいてね、鋳物のこと何にもわからないで勤めたもんです (笑)
宮崎: 北1条にはずいぶん工場がかたまっていた。それで湯が足りないと隣の工場からリヤカーで運んだものです。
山本: うーん、それはやったな。買い湯だ。
名雪: 材質もなにもなかったわけですね。湯ならなんでもいかったんだ (笑)
木下: 雨の日なんかとりべに傘さしてね (笑) ソロリソロリと運んだもんです。
…呑むほどに酔うほどにお話は面白くなってきましたが、、この続きは次号で紹介します。お楽しみに。
文責:名雪東彦